津要玄梁(しんようげんりょう)建立の幻の五重塔と仏像

写真の撮影者・時期など不明
写真の撮影者・時期など不明

幻の五重塔 
 
 延享元年(1744年)津要玄梁は、階上岳の裾野の現在の寺下観音の上にある日向山の一角に五重塔と燈明薹(海から見え灯台の役目をした)を建立しました。その翌年2年8月に落成供養会を執行。その冬12月に66歳にて入寂となりました。
 その後五重塔は、何度か修復修繕を繰り返していましたが、169年後の大正2年(1913年)8月22日の大暴風雨で倒壊してしまいました。近年になり復元の動きもあったようですが実現には至っていないようです。

津要和尚の墓
津要和尚の墓

国内最小級の屋外木造五重塔

 この日向山の五重塔は、一辺6尺5寸(約2m)四方、相輪高は7尺(2・1m)総高推定39尺(11・8m)、全体における一種の組入合子式ともいうべきもので、各階壁板面に諸種の文様を彫刻しています。
 一階には花鳥、二階は十六羅漢、三階は十三仏、四階九曜二十八宿、五階は日月の満ち欠けを欄間とともに彫刻していました。
 また階下門戸の左右に宝相華を彫刻しており、壁板は全てケヤキ材を用いるが、後年の修理部分はクリ材を用いています。
 本尊は石造五智如来で現在は常燈明堂内に安置(現存)されています。大和の室生寺の塔より14尺低く、この塔は超小型の塔で、倒壊前までは国内最小級の屋外木造五重塔と云われていました。

五重塔への入口(潮山神社)
五重塔への入口(潮山神社)

應物寺五重塔遺構遺物

 現地に塔跡の遺構、常燈明堂前に青銅製相輪、常燈明堂内に塔本尊石造五智如来坐像を残しています。
 さらに山下の集落野沢の野沢彦六氏家に、五重塔二層彫板十六羅漢(4点)・五重塔三層十三仏(2~3点)・雲図文様横板(1点)・ 五重塔初層花鳥(1点)・四層九曜ニ十八宿(1点)・塔修理棟札(数点)・心柱残欠・鰐口などを残しています。
 應物寺観音堂跡(現潮山神社):明治の神仏分離(明治4年)で潮山神社と名称が変更となりました(海潮山の山号から潮山神社と称する)。
※守西上人(八戸天聖寺隠居)の記録(「奥州南部糠部巡礼次第」寛保3年1743)では「5間四方の東向の堂」とあります。
※「角川日本地名大辞典青森」より元文5年(1740)五重塔建立発願、延享元年(1744)竣工(「寛政5年(1793)五重宝塔修復勧化帳」)、延享2年8月落慶(「八戸藩勘定書日記」)
 さらに、一辺の寸法や総高がおそらく屋外塔建築として成り立つギリギリの寸法であることを考え合わせると、宗教的塔を建築するという意識より、礼拝する方への観光・工芸物として塔を制作する意識が強かったものとも推測されます。

 

塔の建築の工法

 一応各重は方3間の建築とは思われるも、「一種の組入合子式」とでもいうべき建築様式であったとされ、組物は斗組を採用せず、「彫板を斜めに組入れた」(彫板を斜面して貼布したる)ような様式であったとされます。つまりは正規の塔建築ではない部分が多く、造形も相輪が太く短く、また各重の柱尺が高く、屋根の出は短く、殆ど反りを持たない造りであったようです。
 しかし一方では各重の柱間・欄間・蟇股などは多くの江戸関東風彫刻で装飾されていたようです。前記の「寺下燈明薹址及五重塔址」(「史蹟名勝天然記念物調査報告 2輯」)では、総高推定55尺とするが、「寺下の五階の橖(木偏に堂の字)の特異性」及び「寺下の五階の橖(木偏に堂の字)」何れも金子善兵衛著によれば初重の平面は6尺5寸(約2m)四方、塔身の高さは約32尺(9・7m)、相輪の高さが7尺位(2・1m)であり、従って総高は約39尺(11・8m)と推定されます。
 桑原家に保存の「五重宝塔修覆勧化帳」には、「津要玄梁和尚が仏法に無縁の衆生を済度せんと思えども妙案浮ばず、此上は仏意に任する外なしと観音に詣で、飲食を断ち祈誓する事七夜、満散の暁、観音自在菩薩が夢中に現れ、=善汝無縁の衆生を度せんと思わば、五重宝塔を営み、五智如来を本尊となし、五大力菩薩、五大尊を安置し、又、宝筐印(ほうきょういん)陀羅尼佛、母陀羅尼佛、光明王陀羅尼佛を塔内に納むべし=と託宣、元文五庚申年より思い立ち、延亭元甲子年まで鉄石土木の功績在りて宝塔成就と那るー中略ー寛政五癸丑年(1793)10月吉辰勧行主八戸大工甚六別当野沢村彦六」とあります。

燈明堂
燈明堂

津要玄梁建立の燈明堂

 いわゆる階上岳の前巒(みね)山館前と称する前端にある。海抜は約200尺(60㍍)の位置に位置しています。享保年中建立の堂は、宝暦8年(1758)大破し、再建願いが別当より提出(「八戸藩史稿」)され、再興を見たと思われます。今日、堂の高さ約3・6m、中に一箇の木製燈明台、外に五重塔中に安置しており、五智如来の石像も収蔵しています。木製角行灯は昔灯用として用いたものと思われます。
 燈明堂の周辺には巨大な石があちこちに見られ神聖な雰囲気がただよっています。

相輪
相輪

五重塔の相輪

(五重塔の屋根から天に向かって突き出た金属製の部分)

 仏教寺院では、境内に五重の塔を建立いたします。仏教の開祖であるお釈迦さまが亡くなられた時、その遺体は火葬に付され、その遺骨(仏舎利)は8つに分骨されて、その当時のインドの 8つの主な部族に渡されました。
 そして、8つの部族はそれぞれに頂いた仏舎利を、塔を建ててその中に安置してお祀りいたしました。この塔のことを、古代インドの言葉である梵語(サンスクリット語)で、「ストゥーパ」といいます。このストゥーパが五重塔の起源なのです。
 五重の塔はなぜ五重かといいますと、その5つは、この世を形づくる五つの基礎となるものを表しているのです。その五つとは、「地」、「水」、「火」、「風」、「空」です。これを「五大」と呼びます。今日、仏教徒がお寺での法要などで表に故人の戒名などを書いて仏前に立てる板を「卒塔婆」といいますが、この語源も、梵語(サンスクリット語)の「ストゥーパ」です。
 その卒塔婆の頭には、「地」、「水」、「火」、「風」、「空」を表す形が刻みこまれています。卒塔婆を立てるということは、五重の塔を建てることと同じ意味があります。「地」、「水」、「火」、「風」、「空」を表すそれぞれの形は、「地」は方形、「水」は円、「火」は三角形、「風」は月、「空」は宝珠(水煙の上にのせる飾り)なのです。
 階上町の五重塔の相輪は、常燈明堂前に置かれています。相輪高さは7尺(2・1m)で青銅製。中段で相輪を継ぐ(分離可能)但し水煙はなく多宝塔相輪に似せる相輪を用いています。
 應仏寺五重塔相輪は、陸奥應物寺相輪は火炎・宝珠が現状では欠けています。「寺下の五階の橖(塔)金子善兵衛氏では、露盤(一番下の台)・覆鉢(露盤上にある、鉢を伏せたような形のもの)・四辯の請花(花形の飾り)・九輪(露盤上の柱にある九つの輪装飾)・八辯の請花・水煙(火炎状の装飾金具)・宝珠を挙げる」とあります。以上及び相輪図から判断すると、貧弱な火炎様な水煙と宝珠はいつの間にか失われたものと思われます。

心柱
心柱

心柱

 五重塔は弘化4年(1847)に芯柱が傷み補修しています。この時の補修の仕方があまりにも簡易なものであったため大正2年暴風雨で倒れてしまったと伝えられています。この芯柱の残骸ははちょうどその補修が行なわれた継手の部分であり、携わった大工さんの名前が墨書きされています。

壁板の拓写図(塔三層十三仏:尊名不詳)
壁板の拓写図(塔三層十三仏:尊名不詳)

五重塔壁板

阿羅漢
(尊敬や施しを受けるにふさわしい聖者)
 
 三、四、五重目のいずれかの軒に飾られて板で、雲形紋様が彫られ「阿羅漢」と文字をあしらっています。裏面には「北加己」と墨書きがあり、北側の軒に付けられたと考えられています。
十六羅漢図

 二重目の壁板で、4枚とも裏に「玄梁左筆」「彫刻玄梁」「中気左筆」などの墨書きがあります。晩年津要は中気になり右手が不自由になり、彫刻も筆も左手で行なっていたことがわかります

海潮山応物寺概要

 「八戸聞見録」(旧筑後梁川藩士渡邊村男・明治14年著作):縁起では聖武天皇御宇(帝王が天下を治めている期間)、行基(奈良時代の僧)の創建と云い、海潮山應物寺と号としています。大同年中に中興、鳥羽天皇御宇、慶雲なる者が再建しています。
 享保年中(1716)、津梁が再興しています。今は全くこの寺はありませんが寺蹟と津要玄梁の墓標あるのみです。階上岳に観音堂があり、その堂に應物寺の額面があります。
 津要玄梁は、この寺で住職をしているときに、山上は五重塔と燈明堂を設けました。五重塔は参詣人の目を喜ばせんが為にし、燈明薹は海を通る船が遭難しないようにと建てました。その後、南部公がこの寺へ援助し点灯運営の費用としています。
 「向鶴」(中里忠香著、明治23年)、「糠部五郡小史」(太田弘三著)も同様の伝承を載せています。
 「八戸祠探」(寺下観音堂伝譚)、「神社秘要集」には應物寺の縁起の引用がある(と思われる)が、これもほぼ同文のようです。
 但し引用された應物寺縁起なるものは訛やまちがいが多く、簡単に解読することは難しいようです。


応物寺津要住職

 津要玄梁は、「はちのへ文化財ガイドブック」では、八戸湊町出身と記載されています。津要、津梁・信行・玄梁とも称しており、仏像等の彫名は多く玄梁と刻しています。
 津要玄梁の墓は、五重塔跡近く小祠の右に自然石の墓碑があります。「延享2年(1745)乙丑 前永平祇陀先住石橋玄梁大和尚禅師大閏12月25日」と刻印してあります。

 

津要玄梁が作仏した像

 五重塔塔に用いた拓写あるいは石製線刻不動明王像や大慈大悲観世音菩薩以外にも、階上町内では玄梁作と伝える地蔵大士(茨島愛氏所蔵)が知られています。地蔵様として作仏されてもので、蓮華台座にはめ込まれた立像で、左手に宝珠、右手には願い事を叶えるという与願印を結んでおり、裏面には「前永平玄梁 行年四十六」と刻まれています。享保10年(1725)の作仏と考えられています。
 五重塔塔に用いた拓写あるいは石製線刻不動明王像以外にも、階上町や八戸市には玄梁作と伝えられる多くの仏像があります。その仏像の一部を以下にご紹介いたします。

南無大慈大悲観世音菩薩観世音菩薩像    野沢家  蔵 (高さ37.5㎝)
南無大慈大悲観世音菩薩観世音菩薩像 野沢家 蔵 (高さ37.5㎝)

南無大慈大悲観世音菩薩

 この津要仏は野沢和也氏が所蔵しています。野沢家の祖先には「野沢彦六」がいます。野沢彦六は、津要和尚が寺下に来たときからお世話し、燈明堂・五重塔を建てるときにも先頭にたって津要を支持した人物です。その野沢家に伝わる観音像は津要仏の中でも秀作です。裏には 「享保庚子(1720)十月七日 南無大慈大悲観世音菩薩 行年四十一歳 津要玄梁(享保庚子享保5年)」
と刻まれています。

地蔵菩薩像 (高さ 1・47m) 湊町 十王院 八戸市文化財指定
地蔵菩薩像 (高さ 1・47m) 湊町 十王院 八戸市文化財指定

地蔵菩薩像 (高さ 1・47m)
湊町 十王院 八戸市文化財指定

 

 この地蔵菩薩像は、湊町出身の僧、津要玄梁の作になるもので、像の胎内に津要の墨書が収められている。地蔵菩薩像の容姿は、頭を丸め、身に納衣・袈裟をまとう僧形で、左手に宝珠をもち、右手に錫杖を持つ立像がもっとも多いですが、十王院の像の右手は、指先を下にして手のひらを正面に向る与願印を示しています。

毘沙門天像 小田八幡宮
毘沙門天像 小田八幡宮

毘沙門天像 小田八幡宮
 
 この毘沙門天像は義経が鞍馬から持参したと云います。像は高さ約1m、胸や脛当ての部分に金粉が塗られ、両眼には水晶がはめ込まれており、背中がくりぬかれ、中に小さな八幡像が安置してあります。この像の制作年代は不明ですが、江戸時代中期八戸の僧津要玄梁が、享保三年(1718)に補修した墨書が台板に残っています。毘沙門天は、仏教界の守護神である四天王の内、北方守護の多聞天のことで、根城南部氏の北方守護のため毘沙門堂(小田八幡宮)が置かれたと伝えられています。

【参考文献】 
「八戸祠探」(寺下観音堂伝譚)、「神社秘要集」、「八戸聞見録」「奥州南部糠部巡礼次第」
「角川日本地名大辞典青森」「寛政5年(1793)五重宝塔修復勧化帳」、「八戸藩勘定書日記」


【その他文献】
階上町教育委員会、十王院、小田八幡宮、階上町野沢家より資料・写真データ提供受ける
ウェブサイト日本の塔婆